体力の重要性

日本史で最もおもしろく不可解な事件といえば、織田信長が家来の明智光秀に殺された「本能寺の変」です。
その主君の敵討ちを羽柴秀吉明智光秀との戦いに勝利して、その後の天下統一への第一歩となりました。
私だけではありませんが、この一連のお話には不可解な点が多く、多くの歴史学者が異論を唱えており、複数の説があるのです。
今となってはわからないことだらけで、複数の説があるのですが、その中でなぜ秀吉が光秀を主君の敵討ちとして倒したという説が教科書に載っているのかが理解できません。
どれが正しい説かというのはわかりませんが、現在の教科書に載ってる内容ではないことは間違いありません。
テニスの試合でもフェデラーのショットがどうだとか、ナダルのスピンがどうだとか、誰々のサーブが、誰々の作戦が・・・なんて勝敗の要素について雑誌や専門家が一般の愛好家にわかるように解説しています。
同じく学校で習う日本史でも、小学生がわかるように、源義経の戦い方や、武田の騎馬隊や、織田信長の戦い方くらいは出てきます。
しかし、いくら一般の方にわかるようにとはいえ、勝負の要素において根本的なことが抜け落ちているような気がするのです。
それは体力勝負であることです。
テニスでも結果をダイジェストで見たり、フルで見るといっても入場から試合をして、表彰式までの3時間くらいです。世界の大きな大会は5セットマッチです。長ければ5時間近くの戦いをするのです。例えその勝負がストレート勝ちだとしても、5セットするだけの体力が必要なのです。また、大会は勝てば続くわけですから、次の日も、もしくは1日に数試合ということもあるのです。それをプロテニス選手であれば、通年そのような生活になるのです。
例えジョコビッチが強くとも、3日間、食事も睡眠もとらせずに5セットマッチをすれば、ランキングが3桁の選手でも勝てる可能性は高くなるのです。
ですから、表に出る部分というのはテニスコートでプレーだけですが、そのプレーを続ける体力のためにする行動の方が圧倒的に時間を費やしているのです。それはツアー生活だけにとどまらず、それまでの過程として続けてきたことというのが大切になるのです。ですから育成ジュニアをやっている多くのスクールに対して疑問なのは、生活についてのアドバイスも親御さんに必要になるはずです。ただ、親の顔色を伺い、なんとなく技術的に上手くするだけのテニススクールから本当のテニス選手は生まれないでしょう。
話は「本能寺の変」からの歴史に戻りますが、そういったことから考えても、今の一般的な説は間違えているのです。
まずは地図を見てください。
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ここが光秀と秀吉が戦った場所です。
地図左側にあるのが、有名な「天王山」です。この戦いでのポイントはこの天王山を先に取った方が勝ちという戦略的な観点から、現在でも野球の日本シリーズの第3戦、4戦あたりの勝負を「天王山」と読んでいます。オセロでいえば角みたいなもので、これを取れば戦いが圧倒的に有利に運べるポイントのことです。
戦いにそういうポイントというか勝負所があるのはわかるのですが、秀吉と光秀の戦いは天王山を取る、取られるの前から決まっていたのではないでしょうか。
それはもっと大きな地図で全体を見ればわかります。
写真
紫のピンが秀吉が水攻めしていた、備中高松城です。
赤ピンが天王山です。
天王山の北東に位置する京都で、光秀が信長を殺したのは6月2日です。その情報を6月4日には秀吉は情報を得ていたと言われています。そこから毛利軍と和睦を結び、6月9日には姫路城を出発したとされています。そして6月13日には天王山横の合戦場である山崎に到着したことになっているのです。
この時系列がどう考えてもおかしいのです。最近のテレビ番組では、実際にこの「中国大返し」と言われる10日間ほどの移動が現実に可能かどうかという実験をやっているものを見ました。これを見た中学生だった私はすぐに「これじゃわからない」と思いました。
それは実際の状況にできるだけ近づけようと、実際に鎧兜を身につけてなどということはしていたのですが、実験のサンプルの人数は10名足らずなのです。秀吉は少なくとも1万人以上の兵を動かさなければならなかったのです。しかもマラソン大会みたいに京都の山崎までの競争が勝負ではありません。京都にいる1万人の兵で待ってる光秀と戦争をして勝たなければならなかったのです。
つまり、この実験でもっとも現実に欠けている要素があります。
それが体力です。
当時の戦争での最重要課題はこの体力にあたる「兵糧」です。
ミサイルなどの国を飛び越えて攻撃できるような武器が存在しなかった時代において、戦争での最重要課題は「兵糧」でした。
数日で終わる短期決戦では、各兵士がそれぞれ自分の食べる食料を持っていましたが、それが10日以上の戦いとなれば、大量の兵糧を運ばねばなりません。その兵糧が足りなければ、いくら8割型勝負がついた戦いでも退却せねばならないのです。また、当時の兵のほんとんどが普段は農民でした。そのため農閉期にしか戦いはできませんでした。理由は農耕期にまで戦いをすると翌年の兵糧が不足してしまうからです。そのため戦いは気分や感情でできるものではなかったのです。翌年から数年先の計画を立てながら行動しないと戦いに勝てなかったのです。それらを担当する小荷駄奉行という兵糧の移動や調達を指揮する責任者はとても重要だったのです。そのためこの責任者には経験が豊富で頭の回転が早いかなり優秀な人物が選抜されていたそうです。
それくらい重要なことですから、戦国時代では兵糧隊を攻撃するという攻撃はタブーでもなく、常套手段でした。しかも秀吉はこの小荷駄隊の出身者で、炊き出しをするときに使う薪の調達係でした。また、光秀はそういった底辺の現場で働いた経験こそありませんが、戦略的なことについては、古代の中国の戦略や戦い方を熟知していた秀才であり、それが認められて信長の戦いではいつも主力部隊の責任者を任せれていた人物です。
そう考えると、上の大きな地図を見れば、歴史の教科書に載っているのが間違いだと確信できるのです。
確信理由1
光秀は6月2日に本能寺で信長を殺して、翌日の6月3日には現在の滋賀県にある坂本城に戻って援軍探しをしています。秀吉が本当に6月3日にまだ高松城攻めしていたなら、そんなにあせって援軍を探さなかったはず。
確信理由2
写真
備中高松城から大群を京都付近まで移動させるのは危険すぎるのです。今のように山陽道阪神高速名神高速道路みたいな道路はありません。当時はこの区間は細い道しかなく小荷駄隊を襲撃されやすい移動になるのです。つまり兵の数は1万以上でも、それが細い道での移動となると分断されやすくなるのです。また、当時は1万人以上が休めるような大きな宿場町もありませんから、かなり危険な行動です。これを光秀が待ち構える中、秀吉が選択するとは考えられません。そして光秀も秀吉をみすみす簡単に関西まで移動させたとも考えにくいのです。
確信理由3
家康も兵を持たずに大阪の堺にいました。そして「本能寺の変」の情報を6月4日は知ったと思われ、すぐに三河に逃げています。これは光秀から逃げたのではなく、すでに摂津の国付近まできていた秀吉軍から逃げたと推測できます。この当時は信長以外に忍者などを使って全国の情報を入れていたのは秀吉と家康だけでしょうから。
確信理由4
現在の説の根拠には、6月9日に秀吉は姫路城にいたという文献が数多く残っていることにあります。その数多く残っていること自体が怪しいのです。現在ではフセイン政権やカダフィ政権という独裁政権が特殊ですが、当時はどの国も、その国を治めている人の独裁政権なのです。秀吉は光秀を倒したにとどまらず、天下統一をなしとげているのですから、歴史的文献や公式文書を書き換えるくらいは簡単なことなのです。民主主義の代表的な我が国日本でさえ、検察庁がデータを改ざんしたり、60年前のアメリカとの密約が最近になってわかったりとあるくらいですから。また、秀吉はそもそもヒーローになりたい人ですから、自分の行いを美化するために天下統一ができた最大の要素が主君を裏切ってなったとはさせないはずです。
以上の確信理由から、現在の教科書に載っていることは間違いだと確信できるのです。
このように昔から戦いの勝因の根っこにあるのは「体力」だったのです。それは現在のあらゆる勝負事においても同じです。そしてその「体力」の難しいところは、今日、明日で解決できないところです。つまりテニスなら打点の修正や配球を変更するということはすぐにできますが、体力不足が問題だと試合当日にわかっても対処のしようがないのです。それは数年もしくは数十年を要して作り上げていかなければ手に入れれないものなのです。
それは会社組織も同じです。この「体力」にあたる部分は「兵糧」から「お金」や「エネルギー資源」にと変わりつつあります。ですから現在でも会社は内部留保金の適正額などは経営コンサルタントにアドバイスされたり、データなどから適正額をためていたのですが、その内部留保金をどのようなときに使うのか、どこに投資するのかの判断ができなかった社長が多いのです。そのため現在のような不景気や人口減少に伴う売上げの低下が起こっても対処ができてないのです。
なぜこのような判断ができないかというと、現場を知らないのです。
秀吉は薪係出身でしたし、信長や光秀は成り上がりではありませんが、直近の部下に現場をよく知っている人間をそれまでの身分関係なく配置させていましたし、重要だと思われている御前会議は適当で、現場の人間や忍者、足軽などの末端の兵と気軽に話をしたりと、現実的な生の情報を仕入れていたのです。
しかし、今うまくいっていない会社というのは、近年の行いだけが悪いのではなく、数年前から現場を知らない偉い人の集まる幹部会や役員会で重要なことを決めてしまい、知らない間に「体力」を失っていたのです。末端でも現場の意見を聞くなんて誰にでもできそうですが、そう簡単なことではありません。聞いて知りたい情報だけ聞ければいいのですが、聞きたくない情報も耳に入ります。それは前任者や現在の幹部の悪事や不正などかもしれません。そういったことにクビを突っ込みたくないのです。そういった見たくない物まで見たり、末端に会社批判をされるプライドがあるので聞けないのです。そしてそれらの事柄は長年の体力トレーニング不足から起きている自業自得なものばかりなので尚更です。
つまりは日頃の体力トレーニングが大切なのです。目的を見定めて、必要な時期に必要なだけという時間と配分を考えながら、そして見やすい筋肉の大きさなどだけに着目せずに、バランスと成長性をちゃんと見ながらトレーニングをしていかなければなりません。
難しいこと考える前に、体力がなければ勝負には勝てないということ
これを私も肝に銘じておかなければなりません。

 

ウッドラケットを購入しました
先日、yahooオークションでウッドラケットを落札しました。

カワサキのウッドラケットで未使用品が4本です。この4本の落札金額はなんと3,400円です。今の新品ラケットと桁が違います。
先週にある方にこのオークションで物がいいウッドラケットが出てることを教えてもらい、2500円スタートだったのですが、5000円くらいまで入札金額を予定していました。しかし他の人の5、6人くらいの入札に勝って見事に落札できました。
やはり物の価格は商品そのものの価値とはイコールではないようです。つまりお金で支払う価格とは、そのものの数に対して需要の数がどれくらいあるかで決まるだけなのです。私からすると30,000円する新製品のラケットよりもこのウッドラケットの方が価値が高いのです。それにウッドラケットの方が素材、製造技術、打球感など様々なことではるかに現在のラケットよりも優れているのです。
ただ、30,000円もする新製品ラケットを購入する人をバカにしているわけではありません。大切なことはその価格ではなく、個人の価値観なのです。新製品を購入して気持ちや心が豊かになればそれはそれでいいんです。

 

価値観の変化
新製品のラケットを購入する人も、自分にとって価値があるものを購入しているのですが、その価値とはどこから来ているのでしょうか。私はこんなブログを開設しているのですからウッドラケットの価格については詳しいのですが、ビンテージのラケットコレクターではありません。実際に使用するために必要なのです。しかし、価格とは使う性能だけが反映されているわけではないのです。
例えば楽天で調べると同じウッドラケットでもこんなに価格が高いものもあります。


同じ未使用品でも、こちらはたった1本で6万円もするのです。さすがに今回の私のお買い物がお得だったとしても、同じ楽天で未使用品は他にもありました。


両方ウィルソンのウッドラケットで「ビリージーンキング」と「ジャッククレーマー」の未使用品です。30年以上前に発売されたウッドラケットが未使用で残っているのですから、この3万円でも高くはないと思います。しかしボルグが使ってたドネーのウッドラケットは同じ未使用品でも価格は倍違うのです。
このような例えを見せるとおわかりだとは思いますが、ボルグという人気選手が使っていたということが価格を上げているのです。実際に使用したときの性能に倍の差があるわけでもありませんし、ウィルソンとドネーというメーカーに倍の差があったわけでもないのです。
このようにラケットそのものの性能だけではなく、強い選手と同じ物を使うことにも価値は発生します。日本ではシェアがナンバー1のこのラケットもそういったブランド力という付加価値があると思います。

ひつこいようですが、ナダルと同じラケットで同じように強烈なスピンをかけたいという幸せを否定はしていません。それもテニスの大きな楽しみのひとつです。ただ、そういったブランド力というものは今後変わっていくのではないかと思っているのです。

 

維新」は早いんじゃないの

日本人は坂本龍馬が大好きです。多くの人がこの人みたいになりたいと思っています。

坂本龍馬明治維新の立役者であることは間違いありません。しかし龍馬がやろうとしてることは、当時ほとんどの人が理解できなかったのです。多数が理解できないことをしたのが「維新」ですから、先の選挙で当選した大阪市長の属する党の名前はまだ早いのではないのでしょうか。
新市長の橋下さんは立派な公約を掲げていますし、知事としての実績もあります。その内容は私でも理解できるような素晴らしい内容です。橋下さんがやっていること、やろうとしていることは時代の流れからすると自然で変なことではありません。
赤字が膨らみ続ける財政の立て直しを軸に、公務員の評価やリストラ、採用などを見直して経費削減をしようとしています。同時に教育改革もしようとしています。また財政の立て直しが重要課題ですから、経済を発展させて税収を増やそうとしています。それらを今までは議会と妥協しながら中途半端にやってきたことを、首長が責任を持って独裁的に行えるようにしようとしています。そうしないと改革にスピードがでないからです。
これら橋下さんがやろうとしていることには理解できるのですが、「維新」ではないと思うのです。そんなに夜明けがすぐに来るとは思えません。橋下さんがやろうとしていることに似ているのは「明治維新」ではありません。どちらかというと「享保の改革」なのです。
橋下さんは坂本龍馬ではなく徳川吉宗
享保の改革」とは1700年代の中頃に徳川第8代将軍吉宗が行った改革の総称です。
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当時の日本も今と同じような時代でした。度重なる飢饉などの影響で年貢の徴収率が悪くなり、参勤交代で各地の大名も資金難に陥っていました。しかし、一部の人間だけが贅沢になるように実質は将軍ではなく、側用人という将軍の側近やその関係者だけが裕福になるような仕組みを構築していたために庶民も不満がたまっていたのでした。そんな中で徳川の本筋の男系が途絶えてしまい、御三家でももっとも格の低かった紀州の吉宗が将軍の座についたのです。この吉宗が将軍になれたのも諸説あるのですが、大きな要素としては同じ財政難を抱えていた紀州藩の財政を倹約を主とした手法で立て直した手腕をかわれたからでした。この辺りのいきさつも橋下さんと似ています。
将軍になってからは次のような改革をしていきました。
定免法
年貢の収め方を、1年の収穫量に対して定めていたものを、過去の5年~10年の収穫高から算出して定めるように変更しました。これにより安定した税収が徴収できるようになりました。しかし、農民は飢饉などで不作の年にも定められた年貢を納める必要があったので苦しむことになり、各地で一揆が起きたりしていました。
新田開発
年貢の収穫高を増やすために、田んぼを増やしていった政策です。これも税収が増えることになりましたが、その後に米が余るという問題も発生しました。
足し高の制
当時までは家柄重視の人材登用が主でしたが、能力や素質があれば、家柄にとらわれなくても要職に就けるようにしました。同時に役職者でも能力が低ければクビにできるようにしました。また、これらは人件費の抑制の一面もあり経費削減にもつながりました。
その他にも目安箱、町火消しなどの治安回復、町奉行などの司法制度改革、大奥のリストラなどの経費削減など様々な改革を実行しました。基本的には税収を増やして経費を削減するという財政立て直しの常套手段を数多くやったのですぐに財政を立て直すことができました。しかし、この「享保の改革」はあまり高い評価を受けていません。実際には様々なことで苦労をしています。商業制度の改革は商人からの反対で頓挫してしまい、紀州出身の外様将軍だっただけに反対者も多く、かなり妥協して中途半端になった改革も多かったのです。確かに吉宗の改革がなければ徳川幕府は150年で終わったとも言われていますが、まさに「維新」ではなくて延命にすぎなかったのです。
吉宗のした改革が延命で「維新」になれなかった最大の要因は価値の主軸を変えれなかったことにあります。当時の価値の主軸は「お米」でした。年貢といって米の収穫高で税収を徴収していたのです。実は明治維新という江戸時代から明治時代に変わることで、何が一番大きく変わったのかというと価値の主軸が「お米」から「お金」になったことなんです。教科書では明治になって身分制度が撤廃されたとか、藩が県になったとか、武士が刀をもたなくなったとか書かれていますが、この最も重要な価値の主軸が変わったことが書かれていないのです。これが本当の「維新」なのです。
そういう面から見て私は橋下さんの属する党の名前に「維新」を入れるにはまだ早いんじゃないのかと思うのです。橋下さんが大阪という都市の財政を立て直したところで、「お金」のような大きな価値の主軸が変わるとは思えません。変えようとしても、これだけ「お金」至上主義の世界で、既得権益など既存の様々なものに対して保守的な国がこの10数年で「維新」になるとは考えにくいのです。

 

これからのヒントになる文化
先に述べたように「享保の改革」は短期的な財政難を逃れることはできましたが、すぐにまた財政難を含めた問題が数多く発生してしまいます。歴史上では一揆田沼意次などの贈収賄事件、大塩平八郎の乱など様々な問題が起こりました。当然お金がなかったのは庶民も同じなのですが、お金がなくて不幸なのは一部の特権階級の人たちだけでした。庶民は「化政文化」という質素ですが深くて味のある文化を育み幸せな生活を送っていたのです。歴史の教科書では「元禄文化」という豪華で派手な方が有名ですが、これは江戸幕府という仕組みが安定してきて経済成長があったころの短い期間に急速に発達した時代のことです。一方「化政文化」はこの「享保の改革」でもよくならない幕府を悪口で風刺する絵画、演劇、文章、川柳俳句といった質素ですが高度で深い文化が発達しました。江戸の生活も「長屋」と言われる血のつながりのある家族だけでは生活ができなかったために、土地を持っていた大家さんを家長とした家族の集合体がいくつもありました。現在でも使われる「井戸端会議」というのは当時の長屋で井戸やトイレが共同であり、そこで女性たちが夫や大家の悪口を楽しく話しているところからきています。「無一文」というお金を稼いでいない人も多く存在しており、彼らも一般市民として普通に暮らしていました。お金の流通がないので物々交換や信用やツケでものごとを流通させており、なによりお金も物も不足していた時代ですからリサイクルというのが基本的な考えにありました。そのため当時作られたものは、長く、何度でも使える工夫がされており、豪華絢爛ではありませんが実用的な高度な道具がたくさん製造されていたのです。また、幕府の力が弱くなっていたので、海外の書物などが出回ったり、思想や考え方が多様化していました。
このような時代背景から価値観は少しずつ変わりはじめます。「元禄文化」という豪華絢爛で、金や漆という素材の貴重なもの、絵画でも歌舞伎でも絵や演技そのものよりも、誰が描いたのか、坂田派なのか市川派なのかなどブランドがその価値基準の重要な要素でした。しかし「化政文化」ではそのようなブランド力ではなく、価値観が多様化して個人の必要性や感性を重視して、お金がなるべくかからない楽しみを庶民が作り上げていったのです。

 

世界維新
橋下さんのやることが「維新」でなくとも、いずれそんな時代が来るでしょう。そのときには織田信長坂本龍馬のような価値の主軸を変えてしまうような偉人が生まれるでしょう。しかし、それは日本人からはでないと思います。次に「維新」となる価値の主軸は現在の「お金」が別のものに変わるときでしょう。これからは日本だけが価値の主軸が変わるなんてことはないでしょう。おそらくは世界的な規模での変わり目が一気にくると予想します。すでにアメリカではじまった金融不安がヨーロッパで大きくなっています。中国の人民元も化け物みたいになるかもしれません。「お金」の価値や扱いが主軸になりすぎて物とお金の流通ではなくて、お金とお金で暴走しはじめています。こんなこと書きながら私だってお金が主軸の生活をしています。そして将来が不安です。自分だけでなく子供たちのことも。
でも、意外に大丈夫なのかもしれません。
先週、江坂で楽しく呑んだのですが、話に夢中になり終電がなくなっていました。駅についたらシャッターが閉まっていたのです。痛い出費ですがタクシーで帰れば何とかなります。でもそれだと面白くありません。若いコーチも二人連れてきていたのですがすごい不安そうでした。学生時代はこんなこと日常茶飯事でしたから、久しぶりのこんな体験で私はワクワクしていました。
先輩が言いました。「どうやって帰るか知恵を出し合おうよ」
若い二人からは知恵がでないのです。出てもカラオケとか後輩を車で呼び出すみたいな意見です。大切なことはその知恵が名案かどうかではありません。それを考えることが楽しいかどうかなんです。
すでにある価値を高めるばかりが価値創出ではありません。
いずれお金の価格が価値の高さではなくなります。
そんなこと考えながら、うちの子供たちも小学生になったら京都くらいで置き去りにしてやろうかと思いました。
だって、この子たちは世界維新に遭遇するかもしれないから。

二番煎じ

テニスでも、全盛期のボルグとサンプラスが対戦するとどちらが強かったのか。レーバーとフェデラーではどちらが勝つのかという話題がでるときがあります。時代も道具も違うため、現実に全て同じ条件で戦うということは無理であり、あくまでそれぞれの想像でしかありません。
日本史で、もっとも強い武将は?
この問では、恐らく織田信長と答える人が多いのではないでしょうか。
織田信長が最も強い武将だと思われています。
私も信長は好きな武将ですが、一番戦争に強かったとは思っていません。
日本史至上、最も戦争に強かった武将はこの人です。

源義経です。


織田信長源義経が戦ったらどちらが勝つかというのはおもしろいですが、これも実現させることは不可能です。
源義朝の九男として生まれ、平家との戦いに破れて父義朝は戦死します。2歳だった義経奈良県に逃げ、それから京都の鞍馬寺と源氏の血を引く人間として、平家の時代に住む場所を転々としながら生きていくのです。その後、兄頼朝が伊豆で挙兵し、義経も挙兵します。そして源氏の現場最高責任者として陣頭指揮をとり平家を滅亡に追い込んだ立役者となります。
源氏が平氏を滅ぼした戦いを、総略して「源平の合戦」と呼ばれます。
この戦いの最後は「壇ノ浦の戦い」という山口県下関市の海上で行われた有名な戦いですが、この戦いの前にあった「一の谷の戦い」と「屋島の戦い」で勝利はほぼ決定していました。
そもそも、平氏が京都から追い出されたのは、義経でも頼朝でもなく、源義仲という義経に並ぶ戦いに強い武将でした。戦いだけで言うなら義経と同等で、お互いにその実力は認め合っていたそうですが、素行不良なところがあり、後白河法王、頼朝に嫌われて倒されてしまいました。
そんな内輪もめを源氏がしている間に、平氏は戦いの準備を済ませて、当時は最強だった水軍を使っての戦いに持ち込むために、瀬戸内海近辺で源氏を待ち構える状態でした。
義経は京都の治安維持の大役があったために、源範頼がこの平氏との戦いに挑みますが、兵糧不足などの平氏の戦略にはまり、攻め込めない状況に陥ってしまいました。そこで義経が陣頭指揮をとることになります。
私が生まれ育ったのは神戸市の須磨区です。
ここは、まさに「一の谷の戦い」の舞台でもあります。先祖のお墓が「鵯墓苑」というところにあり、ここは義経が須磨の海岸で陣を張る平氏に対して、裏側の山手から攻撃をしかけるのに移動したと言われる有名な「鵯越」の舞台です。
昔の戦いですからいろんなことで神話化されており、今となっては事実かどうかがわからないことが多いのですが、有名な「一の谷の戦い」で、誰もが下れないような崖を馬で降りたというのは恐らくは作り話だと思われます。
しかし、「鵯越」という当時は険しい山しかなかった場所で、大群を移動させることは不可能と思われていた場所を移動したことは事実です。
私は小学生のころ、お墓参りに行ったときに、通常は家からタクシーで30分くらいかかる墓苑から、歩いて帰ってみたいと父にお願いした思い出があります。
鵯墓苑から「しあわせの村」を抜けて、白川村を通過して、須磨区の自宅に歩いて帰りました。どれくらい時間がかかったかは覚えていませんが、かなりの時間がかかったと思います。とにかく私の気分は義経になりきっており、この険しい大きな山の中をよく通ったなと感心していました。今なら道も舗装されており、喉がかわけば自動販売機がありますが、当時は何もなかったはずです。
過去記事の体力の重要性でも書いたように、このような険しく細い道を進軍することは危険だったのです。また神戸が本拠地だった平氏も地形は熟知しており、ここを大群が移動することが不可能だと思っていました。
ここで歴史は義経というヒーローが、さも誰もができない神業のように書きますが、実際はそうではありません。実は充分に考えられた根拠と情報を義経が持っていたのです。
先にも書いたように義経の幼少期は住む場所を転々としており、どんな生活をしていたのかほとんどわかっていません。ただ、平氏の時代に源氏の血を引いていることで、裏社会で生きていかざるおえなかったことは推測できます。
そんな中で、義経はこの「鵯越」に関してある情報を持っていたのです。
それはこの地方の山賊が刺身を食べていたということです。
義経はこの地方の山賊だけに関わらず、瀬戸内海の海賊ともコネクションがあり、実際に義経平氏に比べると圧倒的に兵力では劣っていたことは事実ですが、その戦いに海賊を使ったことは事実のようです。そのため当時ではタブーとされていた、兵士ではなく船を漕ぐ一般市民を狙って機動力を奪い攻撃したことは有名です。また海賊から潮の流れや天候に関する詳しい情報も入手しており、それらの情報から戦いを有利に進めていたのです。
話は戻りますが、鵯地方の山賊が刺身を食べているということは、どこか公式ではないが山賊しかしらない道があるということになります。過去数年の栄華を極めた平氏には長年神戸を拠点にしながら、誰もこの情報を持っていなかったのです。いや、情報を持っている人もいたでしょうが、上層部が聞く耳を持たなかったのでしょう。
義経はこの山賊から裏ルートを教えてもらい、難なく大群を移動させたのです。神業でもなんでもありません。確実な情報とコネを使い、兵糧も確保しながら進軍したのです。
義経の戦い方というのは次のようにまとめることができます。
1、相手の土俵で戦わない
2、流れが相手にあるときは戦わない
3、確実な情報とコネがなければ戦わない
もっとまとめるとこうなります。
負けるなら戦わない
こうやって大好きな源義経のことをブログに書こうと思って考えていると、どうしても、もう一人の大好きな人が頭に浮かんでくるのです。

中日ドラゴンズの監督で、今年も優勝しそうなのに来年のクビが決定している落合博満さんです。
勝つことが最大のファンサービス
こう言い放って、球団の公式イベントにも参加しなかったり、国中が盛り上がっている野球の世界大会に選手を出さなかったりと・・・。
現在でこそ、源義経は悲運のヒーローとして、ドラマになるなら二枚目俳優が演じるような人物ですが、当時は違いました。
戦争には強いが、部下には完全な能力評価という冷たさをもち、仁義のない「何をしてくるかわからない」という汚い武将だと思われていたのです。そのため実力はありましたが、同等の武将や部下からは極めて敬遠されていました。頼朝とぶつかったときには、多くが頼朝に見方したのではなく、義経の見方をするのが嫌だったとの見方が強いのです。
落合監督も同じです。
勝つことが最大のファンサービスと言って、毎年結果を出し続けているのですが、中日の観客動員数は減少傾向にあります。熱狂的なファンも落合が監督ならファンを止めると言われ、球団上層部はほとんどが落合監督を疎ましく思っています。
逆に昨日、私はある会社の先輩に今考えて進めている企画の構想を話しました。すると先輩に「それはすごい。10年先をいってるすごい構想だ」と褒められました。
私が自分でそこそこ何をやっても成功するだろうと思っているのは、この中途半端な10年くらい先が見えているところにあります。
ゴッホが死ぬまでに一枚の絵も売れず、その絵が今になって数億円という価値がでているように、本当にすごく、最初にはじめた人というのは、10年ではなく100年から200年先が見えているのです。
100年から200年という先が見えている人というのは、今現在からは評価されません。むしろ価値観が大衆よりも進みすぎており、疎ましく、危険人物とされてしまいます。
平将門ではなく平清盛
源義経ではなく足利尊氏
織田信長ではなく徳川家康
坂本龍馬ではなく岩崎弥太郎
西郷隆盛ではなく大久保利通
この上の日本史で上げた人たちの前者が100年から200年先が見えていた人たちで、後者が20年から50年先が見えていた人たちです。そして前者の人たちはみな殺されています。おもしろいのは先日亡くなったアップルの前CEO「スティーブジョブス」は前者も後者も経験した稀な存在です。あまりにも先に進みすぎた商品を作りすぎて、売れずに在庫過多になり創業した会社からも排除され、戻ってきてからは20年から50年先を見た商品を作って、時価総額世界1位の会社にするという一人二役をこなしました。
ジョブスのような人間は稀ですが、たいていどちらかにしかなれません。それは選ぶこともできないでしょう。
成功を収めて平穏無事な人生を送れますが、心のどこかで物足りなさを抱えながら、人々の記憶から消えていく人。
誰も踏み入れたことのない世界に突き進み、夢半ばで消されますが、人々の心に深く生き続ける人。
鹿児島県出身の偉大な二人がいるにも関わらず、本当はやったことの質も量も多いはずの大久保利通ではなく、西郷隆盛の肖像画が今でも多く飾られているという事実が全てを物語っていると思います。
成功者というのは二番煎じなんです。
ただ、忘れられていきますが。
はじめにやった人は必ず夢半ばで消されます。
ただ、人々の心に生き続けていますが。