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二番煎じ

テニスでも、全盛期のボルグとサンプラスが対戦するとどちらが強かったのか。レーバーとフェデラーではどちらが勝つのかという話題がでるときがあります。時代も道具も違うため、現実に全て同じ条件で戦うということは無理であり、あくまでそれぞれの想像でしかありません。
日本史で、もっとも強い武将は?
この問では、恐らく織田信長と答える人が多いのではないでしょうか。
織田信長が最も強い武将だと思われています。
私も信長は好きな武将ですが、一番戦争に強かったとは思っていません。
日本史至上、最も戦争に強かった武将はこの人です。

源義経です。


織田信長源義経が戦ったらどちらが勝つかというのはおもしろいですが、これも実現させることは不可能です。
源義朝の九男として生まれ、平家との戦いに破れて父義朝は戦死します。2歳だった義経奈良県に逃げ、それから京都の鞍馬寺と源氏の血を引く人間として、平家の時代に住む場所を転々としながら生きていくのです。その後、兄頼朝が伊豆で挙兵し、義経も挙兵します。そして源氏の現場最高責任者として陣頭指揮をとり平家を滅亡に追い込んだ立役者となります。
源氏が平氏を滅ぼした戦いを、総略して「源平の合戦」と呼ばれます。
この戦いの最後は「壇ノ浦の戦い」という山口県下関市の海上で行われた有名な戦いですが、この戦いの前にあった「一の谷の戦い」と「屋島の戦い」で勝利はほぼ決定していました。
そもそも、平氏が京都から追い出されたのは、義経でも頼朝でもなく、源義仲という義経に並ぶ戦いに強い武将でした。戦いだけで言うなら義経と同等で、お互いにその実力は認め合っていたそうですが、素行不良なところがあり、後白河法王、頼朝に嫌われて倒されてしまいました。
そんな内輪もめを源氏がしている間に、平氏は戦いの準備を済ませて、当時は最強だった水軍を使っての戦いに持ち込むために、瀬戸内海近辺で源氏を待ち構える状態でした。
義経は京都の治安維持の大役があったために、源範頼がこの平氏との戦いに挑みますが、兵糧不足などの平氏の戦略にはまり、攻め込めない状況に陥ってしまいました。そこで義経が陣頭指揮をとることになります。
私が生まれ育ったのは神戸市の須磨区です。
ここは、まさに「一の谷の戦い」の舞台でもあります。先祖のお墓が「鵯墓苑」というところにあり、ここは義経が須磨の海岸で陣を張る平氏に対して、裏側の山手から攻撃をしかけるのに移動したと言われる有名な「鵯越」の舞台です。
昔の戦いですからいろんなことで神話化されており、今となっては事実かどうかがわからないことが多いのですが、有名な「一の谷の戦い」で、誰もが下れないような崖を馬で降りたというのは恐らくは作り話だと思われます。
しかし、「鵯越」という当時は険しい山しかなかった場所で、大群を移動させることは不可能と思われていた場所を移動したことは事実です。
私は小学生のころ、お墓参りに行ったときに、通常は家からタクシーで30分くらいかかる墓苑から、歩いて帰ってみたいと父にお願いした思い出があります。
鵯墓苑から「しあわせの村」を抜けて、白川村を通過して、須磨区の自宅に歩いて帰りました。どれくらい時間がかかったかは覚えていませんが、かなりの時間がかかったと思います。とにかく私の気分は義経になりきっており、この険しい大きな山の中をよく通ったなと感心していました。今なら道も舗装されており、喉がかわけば自動販売機がありますが、当時は何もなかったはずです。
過去記事の体力の重要性でも書いたように、このような険しく細い道を進軍することは危険だったのです。また神戸が本拠地だった平氏も地形は熟知しており、ここを大群が移動することが不可能だと思っていました。
ここで歴史は義経というヒーローが、さも誰もができない神業のように書きますが、実際はそうではありません。実は充分に考えられた根拠と情報を義経が持っていたのです。
先にも書いたように義経の幼少期は住む場所を転々としており、どんな生活をしていたのかほとんどわかっていません。ただ、平氏の時代に源氏の血を引いていることで、裏社会で生きていかざるおえなかったことは推測できます。
そんな中で、義経はこの「鵯越」に関してある情報を持っていたのです。
それはこの地方の山賊が刺身を食べていたということです。
義経はこの地方の山賊だけに関わらず、瀬戸内海の海賊ともコネクションがあり、実際に義経平氏に比べると圧倒的に兵力では劣っていたことは事実ですが、その戦いに海賊を使ったことは事実のようです。そのため当時ではタブーとされていた、兵士ではなく船を漕ぐ一般市民を狙って機動力を奪い攻撃したことは有名です。また海賊から潮の流れや天候に関する詳しい情報も入手しており、それらの情報から戦いを有利に進めていたのです。
話は戻りますが、鵯地方の山賊が刺身を食べているということは、どこか公式ではないが山賊しかしらない道があるということになります。過去数年の栄華を極めた平氏には長年神戸を拠点にしながら、誰もこの情報を持っていなかったのです。いや、情報を持っている人もいたでしょうが、上層部が聞く耳を持たなかったのでしょう。
義経はこの山賊から裏ルートを教えてもらい、難なく大群を移動させたのです。神業でもなんでもありません。確実な情報とコネを使い、兵糧も確保しながら進軍したのです。
義経の戦い方というのは次のようにまとめることができます。
1、相手の土俵で戦わない
2、流れが相手にあるときは戦わない
3、確実な情報とコネがなければ戦わない
もっとまとめるとこうなります。
負けるなら戦わない
こうやって大好きな源義経のことをブログに書こうと思って考えていると、どうしても、もう一人の大好きな人が頭に浮かんでくるのです。

中日ドラゴンズの監督で、今年も優勝しそうなのに来年のクビが決定している落合博満さんです。
勝つことが最大のファンサービス
こう言い放って、球団の公式イベントにも参加しなかったり、国中が盛り上がっている野球の世界大会に選手を出さなかったりと・・・。
現在でこそ、源義経は悲運のヒーローとして、ドラマになるなら二枚目俳優が演じるような人物ですが、当時は違いました。
戦争には強いが、部下には完全な能力評価という冷たさをもち、仁義のない「何をしてくるかわからない」という汚い武将だと思われていたのです。そのため実力はありましたが、同等の武将や部下からは極めて敬遠されていました。頼朝とぶつかったときには、多くが頼朝に見方したのではなく、義経の見方をするのが嫌だったとの見方が強いのです。
落合監督も同じです。
勝つことが最大のファンサービスと言って、毎年結果を出し続けているのですが、中日の観客動員数は減少傾向にあります。熱狂的なファンも落合が監督ならファンを止めると言われ、球団上層部はほとんどが落合監督を疎ましく思っています。
逆に昨日、私はある会社の先輩に今考えて進めている企画の構想を話しました。すると先輩に「それはすごい。10年先をいってるすごい構想だ」と褒められました。
私が自分でそこそこ何をやっても成功するだろうと思っているのは、この中途半端な10年くらい先が見えているところにあります。
ゴッホが死ぬまでに一枚の絵も売れず、その絵が今になって数億円という価値がでているように、本当にすごく、最初にはじめた人というのは、10年ではなく100年から200年先が見えているのです。
100年から200年という先が見えている人というのは、今現在からは評価されません。むしろ価値観が大衆よりも進みすぎており、疎ましく、危険人物とされてしまいます。
平将門ではなく平清盛
源義経ではなく足利尊氏
織田信長ではなく徳川家康
坂本龍馬ではなく岩崎弥太郎
西郷隆盛ではなく大久保利通
この上の日本史で上げた人たちの前者が100年から200年先が見えていた人たちで、後者が20年から50年先が見えていた人たちです。そして前者の人たちはみな殺されています。おもしろいのは先日亡くなったアップルの前CEO「スティーブジョブス」は前者も後者も経験した稀な存在です。あまりにも先に進みすぎた商品を作りすぎて、売れずに在庫過多になり創業した会社からも排除され、戻ってきてからは20年から50年先を見た商品を作って、時価総額世界1位の会社にするという一人二役をこなしました。
ジョブスのような人間は稀ですが、たいていどちらかにしかなれません。それは選ぶこともできないでしょう。
成功を収めて平穏無事な人生を送れますが、心のどこかで物足りなさを抱えながら、人々の記憶から消えていく人。
誰も踏み入れたことのない世界に突き進み、夢半ばで消されますが、人々の心に深く生き続ける人。
鹿児島県出身の偉大な二人がいるにも関わらず、本当はやったことの質も量も多いはずの大久保利通ではなく、西郷隆盛の肖像画が今でも多く飾られているという事実が全てを物語っていると思います。
成功者というのは二番煎じなんです。
ただ、忘れられていきますが。
はじめにやった人は必ず夢半ばで消されます。
ただ、人々の心に生き続けていますが。