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ウッドラケットを購入しました
先日、yahooオークションでウッドラケットを落札しました。

カワサキのウッドラケットで未使用品が4本です。この4本の落札金額はなんと3,400円です。今の新品ラケットと桁が違います。
先週にある方にこのオークションで物がいいウッドラケットが出てることを教えてもらい、2500円スタートだったのですが、5000円くらいまで入札金額を予定していました。しかし他の人の5、6人くらいの入札に勝って見事に落札できました。
やはり物の価格は商品そのものの価値とはイコールではないようです。つまりお金で支払う価格とは、そのものの数に対して需要の数がどれくらいあるかで決まるだけなのです。私からすると30,000円する新製品のラケットよりもこのウッドラケットの方が価値が高いのです。それにウッドラケットの方が素材、製造技術、打球感など様々なことではるかに現在のラケットよりも優れているのです。
ただ、30,000円もする新製品ラケットを購入する人をバカにしているわけではありません。大切なことはその価格ではなく、個人の価値観なのです。新製品を購入して気持ちや心が豊かになればそれはそれでいいんです。

 

価値観の変化
新製品のラケットを購入する人も、自分にとって価値があるものを購入しているのですが、その価値とはどこから来ているのでしょうか。私はこんなブログを開設しているのですからウッドラケットの価格については詳しいのですが、ビンテージのラケットコレクターではありません。実際に使用するために必要なのです。しかし、価格とは使う性能だけが反映されているわけではないのです。
例えば楽天で調べると同じウッドラケットでもこんなに価格が高いものもあります。


同じ未使用品でも、こちらはたった1本で6万円もするのです。さすがに今回の私のお買い物がお得だったとしても、同じ楽天で未使用品は他にもありました。


両方ウィルソンのウッドラケットで「ビリージーンキング」と「ジャッククレーマー」の未使用品です。30年以上前に発売されたウッドラケットが未使用で残っているのですから、この3万円でも高くはないと思います。しかしボルグが使ってたドネーのウッドラケットは同じ未使用品でも価格は倍違うのです。
このような例えを見せるとおわかりだとは思いますが、ボルグという人気選手が使っていたということが価格を上げているのです。実際に使用したときの性能に倍の差があるわけでもありませんし、ウィルソンとドネーというメーカーに倍の差があったわけでもないのです。
このようにラケットそのものの性能だけではなく、強い選手と同じ物を使うことにも価値は発生します。日本ではシェアがナンバー1のこのラケットもそういったブランド力という付加価値があると思います。

ひつこいようですが、ナダルと同じラケットで同じように強烈なスピンをかけたいという幸せを否定はしていません。それもテニスの大きな楽しみのひとつです。ただ、そういったブランド力というものは今後変わっていくのではないかと思っているのです。

 

維新」は早いんじゃないの

日本人は坂本龍馬が大好きです。多くの人がこの人みたいになりたいと思っています。

坂本龍馬明治維新の立役者であることは間違いありません。しかし龍馬がやろうとしてることは、当時ほとんどの人が理解できなかったのです。多数が理解できないことをしたのが「維新」ですから、先の選挙で当選した大阪市長の属する党の名前はまだ早いのではないのでしょうか。
新市長の橋下さんは立派な公約を掲げていますし、知事としての実績もあります。その内容は私でも理解できるような素晴らしい内容です。橋下さんがやっていること、やろうとしていることは時代の流れからすると自然で変なことではありません。
赤字が膨らみ続ける財政の立て直しを軸に、公務員の評価やリストラ、採用などを見直して経費削減をしようとしています。同時に教育改革もしようとしています。また財政の立て直しが重要課題ですから、経済を発展させて税収を増やそうとしています。それらを今までは議会と妥協しながら中途半端にやってきたことを、首長が責任を持って独裁的に行えるようにしようとしています。そうしないと改革にスピードがでないからです。
これら橋下さんがやろうとしていることには理解できるのですが、「維新」ではないと思うのです。そんなに夜明けがすぐに来るとは思えません。橋下さんがやろうとしていることに似ているのは「明治維新」ではありません。どちらかというと「享保の改革」なのです。
橋下さんは坂本龍馬ではなく徳川吉宗
享保の改革」とは1700年代の中頃に徳川第8代将軍吉宗が行った改革の総称です。
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当時の日本も今と同じような時代でした。度重なる飢饉などの影響で年貢の徴収率が悪くなり、参勤交代で各地の大名も資金難に陥っていました。しかし、一部の人間だけが贅沢になるように実質は将軍ではなく、側用人という将軍の側近やその関係者だけが裕福になるような仕組みを構築していたために庶民も不満がたまっていたのでした。そんな中で徳川の本筋の男系が途絶えてしまい、御三家でももっとも格の低かった紀州の吉宗が将軍の座についたのです。この吉宗が将軍になれたのも諸説あるのですが、大きな要素としては同じ財政難を抱えていた紀州藩の財政を倹約を主とした手法で立て直した手腕をかわれたからでした。この辺りのいきさつも橋下さんと似ています。
将軍になってからは次のような改革をしていきました。
定免法
年貢の収め方を、1年の収穫量に対して定めていたものを、過去の5年~10年の収穫高から算出して定めるように変更しました。これにより安定した税収が徴収できるようになりました。しかし、農民は飢饉などで不作の年にも定められた年貢を納める必要があったので苦しむことになり、各地で一揆が起きたりしていました。
新田開発
年貢の収穫高を増やすために、田んぼを増やしていった政策です。これも税収が増えることになりましたが、その後に米が余るという問題も発生しました。
足し高の制
当時までは家柄重視の人材登用が主でしたが、能力や素質があれば、家柄にとらわれなくても要職に就けるようにしました。同時に役職者でも能力が低ければクビにできるようにしました。また、これらは人件費の抑制の一面もあり経費削減にもつながりました。
その他にも目安箱、町火消しなどの治安回復、町奉行などの司法制度改革、大奥のリストラなどの経費削減など様々な改革を実行しました。基本的には税収を増やして経費を削減するという財政立て直しの常套手段を数多くやったのですぐに財政を立て直すことができました。しかし、この「享保の改革」はあまり高い評価を受けていません。実際には様々なことで苦労をしています。商業制度の改革は商人からの反対で頓挫してしまい、紀州出身の外様将軍だっただけに反対者も多く、かなり妥協して中途半端になった改革も多かったのです。確かに吉宗の改革がなければ徳川幕府は150年で終わったとも言われていますが、まさに「維新」ではなくて延命にすぎなかったのです。
吉宗のした改革が延命で「維新」になれなかった最大の要因は価値の主軸を変えれなかったことにあります。当時の価値の主軸は「お米」でした。年貢といって米の収穫高で税収を徴収していたのです。実は明治維新という江戸時代から明治時代に変わることで、何が一番大きく変わったのかというと価値の主軸が「お米」から「お金」になったことなんです。教科書では明治になって身分制度が撤廃されたとか、藩が県になったとか、武士が刀をもたなくなったとか書かれていますが、この最も重要な価値の主軸が変わったことが書かれていないのです。これが本当の「維新」なのです。
そういう面から見て私は橋下さんの属する党の名前に「維新」を入れるにはまだ早いんじゃないのかと思うのです。橋下さんが大阪という都市の財政を立て直したところで、「お金」のような大きな価値の主軸が変わるとは思えません。変えようとしても、これだけ「お金」至上主義の世界で、既得権益など既存の様々なものに対して保守的な国がこの10数年で「維新」になるとは考えにくいのです。

 

これからのヒントになる文化
先に述べたように「享保の改革」は短期的な財政難を逃れることはできましたが、すぐにまた財政難を含めた問題が数多く発生してしまいます。歴史上では一揆田沼意次などの贈収賄事件、大塩平八郎の乱など様々な問題が起こりました。当然お金がなかったのは庶民も同じなのですが、お金がなくて不幸なのは一部の特権階級の人たちだけでした。庶民は「化政文化」という質素ですが深くて味のある文化を育み幸せな生活を送っていたのです。歴史の教科書では「元禄文化」という豪華で派手な方が有名ですが、これは江戸幕府という仕組みが安定してきて経済成長があったころの短い期間に急速に発達した時代のことです。一方「化政文化」はこの「享保の改革」でもよくならない幕府を悪口で風刺する絵画、演劇、文章、川柳俳句といった質素ですが高度で深い文化が発達しました。江戸の生活も「長屋」と言われる血のつながりのある家族だけでは生活ができなかったために、土地を持っていた大家さんを家長とした家族の集合体がいくつもありました。現在でも使われる「井戸端会議」というのは当時の長屋で井戸やトイレが共同であり、そこで女性たちが夫や大家の悪口を楽しく話しているところからきています。「無一文」というお金を稼いでいない人も多く存在しており、彼らも一般市民として普通に暮らしていました。お金の流通がないので物々交換や信用やツケでものごとを流通させており、なによりお金も物も不足していた時代ですからリサイクルというのが基本的な考えにありました。そのため当時作られたものは、長く、何度でも使える工夫がされており、豪華絢爛ではありませんが実用的な高度な道具がたくさん製造されていたのです。また、幕府の力が弱くなっていたので、海外の書物などが出回ったり、思想や考え方が多様化していました。
このような時代背景から価値観は少しずつ変わりはじめます。「元禄文化」という豪華絢爛で、金や漆という素材の貴重なもの、絵画でも歌舞伎でも絵や演技そのものよりも、誰が描いたのか、坂田派なのか市川派なのかなどブランドがその価値基準の重要な要素でした。しかし「化政文化」ではそのようなブランド力ではなく、価値観が多様化して個人の必要性や感性を重視して、お金がなるべくかからない楽しみを庶民が作り上げていったのです。

 

世界維新
橋下さんのやることが「維新」でなくとも、いずれそんな時代が来るでしょう。そのときには織田信長坂本龍馬のような価値の主軸を変えてしまうような偉人が生まれるでしょう。しかし、それは日本人からはでないと思います。次に「維新」となる価値の主軸は現在の「お金」が別のものに変わるときでしょう。これからは日本だけが価値の主軸が変わるなんてことはないでしょう。おそらくは世界的な規模での変わり目が一気にくると予想します。すでにアメリカではじまった金融不安がヨーロッパで大きくなっています。中国の人民元も化け物みたいになるかもしれません。「お金」の価値や扱いが主軸になりすぎて物とお金の流通ではなくて、お金とお金で暴走しはじめています。こんなこと書きながら私だってお金が主軸の生活をしています。そして将来が不安です。自分だけでなく子供たちのことも。
でも、意外に大丈夫なのかもしれません。
先週、江坂で楽しく呑んだのですが、話に夢中になり終電がなくなっていました。駅についたらシャッターが閉まっていたのです。痛い出費ですがタクシーで帰れば何とかなります。でもそれだと面白くありません。若いコーチも二人連れてきていたのですがすごい不安そうでした。学生時代はこんなこと日常茶飯事でしたから、久しぶりのこんな体験で私はワクワクしていました。
先輩が言いました。「どうやって帰るか知恵を出し合おうよ」
若い二人からは知恵がでないのです。出てもカラオケとか後輩を車で呼び出すみたいな意見です。大切なことはその知恵が名案かどうかではありません。それを考えることが楽しいかどうかなんです。
すでにある価値を高めるばかりが価値創出ではありません。
いずれお金の価格が価値の高さではなくなります。
そんなこと考えながら、うちの子供たちも小学生になったら京都くらいで置き去りにしてやろうかと思いました。
だって、この子たちは世界維新に遭遇するかもしれないから。