読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

偏差値

今日、残念な訃報をニュースで見ました。

桑田昭三さんがお亡くなりになられました。この方の功績は『偏差値の生みの親』と呼ばれるように中学で理科の先生をされていた時に、受験校の選択ミスで多くの子供達を不合格にさせてしまったという苦い経験から『偏差値』というものを生み出されました。

私もこの『偏差値』という数字を、今でも仕事で使っています。パソコンのエクセルには偏差値の計算式を入れた自前のシートを持っており重宝しています。

私はこの『偏差値』という数字が大好きです。それはこの数字が自分の居場所を教えてくれるからです。ただし、正規分布というデータの集まりが山形でなければ使えない数値であり、山形が二つあったり、どちらか一方に極端に偏るベキ分布のような形では使えない数字ではあります。また、これは私特有の使い方なのかもしれませんが、相関関係にある異なる数値をそれぞれに偏差値化し、その偏差値と偏差値の差を出すことによって、本来いなければいけない場所を導き出すものでもあります。

ただ、亡くなられた桑田先生も『よみがえれ偏差値』なんていうタイトルの本を出すように、偏差値という数字が子供たちを追い込む悪の数字として、公立の学校では使われなくなりました。当然ながら悪いのは偏差値ではなく使う側にあります。しかし、偏差値という数字だけを悪者にして、子供たちの心を考えるみたいな綺麗ごとで評価するようになってしまったようです。数字ではなく人が評価するという考えは間違えではありませんが、人という生き物自体が基本的に偏っています。何かに囚われています。固定観念を持っています。中には少数ですが本当に素直に汚れなく物事を見れる人というのもいるのは事実ですが、そういう人は基本的に社会には受け入れられていません。異常者、変人、サイコパスというような呼ばれ方で差別されているので、評価をするような立場や地位に就いていることは皆無です。

最近は、囲碁でもロボットが人間に勝つようになり、人工知能が人間を超えて危険な時代が来るなんてテレビでやっているのを見ましたが、まったく間抜けな心配です。もっと心配した方がいいのは考えが偏り、見栄や虚像、常識に囚われ、捨てきれない固定観念を持った阿呆な人間が、膨大なデータを手に入れることが容易くなっていることです。偏差値という素晴らしい数字を、悪にしてしまった学校教育者たちのように、それ以外にもある多くの素晴らしいデータの使い方を阿呆が間違えて使ってしまうことの怖さです。

織田信長豊臣秀吉徳川家康、この3人の戦国武将は何かと比較対象になるのですが、この3人で一番悪者は誰なのでしょう。3人とも天下を取るために多くの人を騙しました。多くの人を殺しました。多くのものを破壊しました。そうやって悪事を数だけで見ればどうしたって悪い順に信長、秀吉、家康となります。私からすればそんなもの五十歩百歩です。それよりは「天下を取って何をしたかったのか」という問いが大切なのです。

要するに、膨大で貴重で素晴らしいデータも数字も誰が使うかによって変わるのです。そして、データや数字を使って解こうとしている問題は何のために使うのかという目的によって変わってしまうのです。

 

知性は、方法や道具に対しては、

鋭い鑑識眼を持っていますが、

目的や価値については盲目です。

アインシュタイン