ささやかな夢

誰もがもし親になったら、その子供と一緒にやってみたいことというのは考えたことがあるだろう。男の子ならキャッチボールとか女の子なら一緒にケーキ作りなどと。私の息子たちは二人とも野球をしている。仕事がテニスコーチなので当然テニスをやってほしいとは思っていたが鮮やかに裏切られた。ただその裏切りも予想はできた。私自身も音楽一家みたいな家に生まれたのに楽器は何一つ奏でることができないからだ。そんな私のささやかな夢は、息子と一緒に寄席に行くことだった。

今日そんなささやかな夢の一つを叶えた。寄席ではないが立派なホールの落語会を長男と一緒に行った。しかも個人的には念願の柳家小三治の噺を生で聴くことができて感激であった。落語というのは私が言うまでもないが奥の深い芸である。落語の特殊性を一言でいうならパソコンのクラウドコンピューティングのようなものであろうか。芸そのものを直接観たり聴いたりで笑うのではなく聴き手それぞれの頭の中で空想させ、その世界の中で物語が進むんでいく。『慌てん坊の熊さんが憚りに落っこちた』というくすぶりで笑いが起こるのも、実際に講座にトイレがあってそこに熊さんが落ちるということを演じるのではない。あくまで聴き手の空想の中で熊さんがトイレに落っこちるのである。また、客層に応じて使う言葉は現代風にしてはいるがトイレを憚りと言ったり、昔の商店が旦那、番頭、手代、小僧というような序列があった風習など、それなりの予備知識がないと空想ができないということもあるのだ。

私の父親は中卒であった。それに合わせて学校の勉強に全くの興味を持てなかった。だから、私は高校に行かないという進路希望を親に相談無く出したことがあった。そんな私に父は黙って通信制の高校に通い始めており、それは私への無言のメッセージだった。そんな器量にはほど遠いが、まだ小学3年の息子を落語会に連れて行ったのは私なりの無言のメッセージだった。テストのための暗記は無意味でも、知識はないよりあった方がいい。お父さんが落語を楽しめるのは、それなりの知識と経験、そして純粋な感情があるからなんだ。