体力の重要性

日本史で最もおもしろく不可解な事件といえば、織田信長が家来の明智光秀に殺された「本能寺の変」です。
その主君の敵討ちを羽柴秀吉明智光秀との戦いに勝利して、その後の天下統一への第一歩となりました。
私だけではありませんが、この一連のお話には不可解な点が多く、多くの歴史学者が異論を唱えており、複数の説があるのです。
今となってはわからないことだらけで、複数の説があるのですが、その中でなぜ秀吉が光秀を主君の敵討ちとして倒したという説が教科書に載っているのかが理解できません。
どれが正しい説かというのはわかりませんが、現在の教科書に載ってる内容ではないことは間違いありません。
テニスの試合でもフェデラーのショットがどうだとか、ナダルのスピンがどうだとか、誰々のサーブが、誰々の作戦が・・・なんて勝敗の要素について雑誌や専門家が一般の愛好家にわかるように解説しています。
同じく学校で習う日本史でも、小学生がわかるように、源義経の戦い方や、武田の騎馬隊や、織田信長の戦い方くらいは出てきます。
しかし、いくら一般の方にわかるようにとはいえ、勝負の要素において根本的なことが抜け落ちているような気がするのです。
それは体力勝負であることです。
テニスでも結果をダイジェストで見たり、フルで見るといっても入場から試合をして、表彰式までの3時間くらいです。世界の大きな大会は5セットマッチです。長ければ5時間近くの戦いをするのです。例えその勝負がストレート勝ちだとしても、5セットするだけの体力が必要なのです。また、大会は勝てば続くわけですから、次の日も、もしくは1日に数試合ということもあるのです。それをプロテニス選手であれば、通年そのような生活になるのです。
例えジョコビッチが強くとも、3日間、食事も睡眠もとらせずに5セットマッチをすれば、ランキングが3桁の選手でも勝てる可能性は高くなるのです。
ですから、表に出る部分というのはテニスコートでプレーだけですが、そのプレーを続ける体力のためにする行動の方が圧倒的に時間を費やしているのです。それはツアー生活だけにとどまらず、それまでの過程として続けてきたことというのが大切になるのです。ですから育成ジュニアをやっている多くのスクールに対して疑問なのは、生活についてのアドバイスも親御さんに必要になるはずです。ただ、親の顔色を伺い、なんとなく技術的に上手くするだけのテニススクールから本当のテニス選手は生まれないでしょう。
話は「本能寺の変」からの歴史に戻りますが、そういったことから考えても、今の一般的な説は間違えているのです。
まずは地図を見てください。
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ここが光秀と秀吉が戦った場所です。
地図左側にあるのが、有名な「天王山」です。この戦いでのポイントはこの天王山を先に取った方が勝ちという戦略的な観点から、現在でも野球の日本シリーズの第3戦、4戦あたりの勝負を「天王山」と読んでいます。オセロでいえば角みたいなもので、これを取れば戦いが圧倒的に有利に運べるポイントのことです。
戦いにそういうポイントというか勝負所があるのはわかるのですが、秀吉と光秀の戦いは天王山を取る、取られるの前から決まっていたのではないでしょうか。
それはもっと大きな地図で全体を見ればわかります。
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紫のピンが秀吉が水攻めしていた、備中高松城です。
赤ピンが天王山です。
天王山の北東に位置する京都で、光秀が信長を殺したのは6月2日です。その情報を6月4日には秀吉は情報を得ていたと言われています。そこから毛利軍と和睦を結び、6月9日には姫路城を出発したとされています。そして6月13日には天王山横の合戦場である山崎に到着したことになっているのです。
この時系列がどう考えてもおかしいのです。最近のテレビ番組では、実際にこの「中国大返し」と言われる10日間ほどの移動が現実に可能かどうかという実験をやっているものを見ました。これを見た中学生だった私はすぐに「これじゃわからない」と思いました。
それは実際の状況にできるだけ近づけようと、実際に鎧兜を身につけてなどということはしていたのですが、実験のサンプルの人数は10名足らずなのです。秀吉は少なくとも1万人以上の兵を動かさなければならなかったのです。しかもマラソン大会みたいに京都の山崎までの競争が勝負ではありません。京都にいる1万人の兵で待ってる光秀と戦争をして勝たなければならなかったのです。
つまり、この実験でもっとも現実に欠けている要素があります。
それが体力です。
当時の戦争での最重要課題はこの体力にあたる「兵糧」です。
ミサイルなどの国を飛び越えて攻撃できるような武器が存在しなかった時代において、戦争での最重要課題は「兵糧」でした。
数日で終わる短期決戦では、各兵士がそれぞれ自分の食べる食料を持っていましたが、それが10日以上の戦いとなれば、大量の兵糧を運ばねばなりません。その兵糧が足りなければ、いくら8割型勝負がついた戦いでも退却せねばならないのです。また、当時の兵のほんとんどが普段は農民でした。そのため農閉期にしか戦いはできませんでした。理由は農耕期にまで戦いをすると翌年の兵糧が不足してしまうからです。そのため戦いは気分や感情でできるものではなかったのです。翌年から数年先の計画を立てながら行動しないと戦いに勝てなかったのです。それらを担当する小荷駄奉行という兵糧の移動や調達を指揮する責任者はとても重要だったのです。そのためこの責任者には経験が豊富で頭の回転が早いかなり優秀な人物が選抜されていたそうです。
それくらい重要なことですから、戦国時代では兵糧隊を攻撃するという攻撃はタブーでもなく、常套手段でした。しかも秀吉はこの小荷駄隊の出身者で、炊き出しをするときに使う薪の調達係でした。また、光秀はそういった底辺の現場で働いた経験こそありませんが、戦略的なことについては、古代の中国の戦略や戦い方を熟知していた秀才であり、それが認められて信長の戦いではいつも主力部隊の責任者を任せれていた人物です。
そう考えると、上の大きな地図を見れば、歴史の教科書に載っているのが間違いだと確信できるのです。
確信理由1
光秀は6月2日に本能寺で信長を殺して、翌日の6月3日には現在の滋賀県にある坂本城に戻って援軍探しをしています。秀吉が本当に6月3日にまだ高松城攻めしていたなら、そんなにあせって援軍を探さなかったはず。
確信理由2
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備中高松城から大群を京都付近まで移動させるのは危険すぎるのです。今のように山陽道阪神高速名神高速道路みたいな道路はありません。当時はこの区間は細い道しかなく小荷駄隊を襲撃されやすい移動になるのです。つまり兵の数は1万以上でも、それが細い道での移動となると分断されやすくなるのです。また、当時は1万人以上が休めるような大きな宿場町もありませんから、かなり危険な行動です。これを光秀が待ち構える中、秀吉が選択するとは考えられません。そして光秀も秀吉をみすみす簡単に関西まで移動させたとも考えにくいのです。
確信理由3
家康も兵を持たずに大阪の堺にいました。そして「本能寺の変」の情報を6月4日は知ったと思われ、すぐに三河に逃げています。これは光秀から逃げたのではなく、すでに摂津の国付近まできていた秀吉軍から逃げたと推測できます。この当時は信長以外に忍者などを使って全国の情報を入れていたのは秀吉と家康だけでしょうから。
確信理由4
現在の説の根拠には、6月9日に秀吉は姫路城にいたという文献が数多く残っていることにあります。その数多く残っていること自体が怪しいのです。現在ではフセイン政権やカダフィ政権という独裁政権が特殊ですが、当時はどの国も、その国を治めている人の独裁政権なのです。秀吉は光秀を倒したにとどまらず、天下統一をなしとげているのですから、歴史的文献や公式文書を書き換えるくらいは簡単なことなのです。民主主義の代表的な我が国日本でさえ、検察庁がデータを改ざんしたり、60年前のアメリカとの密約が最近になってわかったりとあるくらいですから。また、秀吉はそもそもヒーローになりたい人ですから、自分の行いを美化するために天下統一ができた最大の要素が主君を裏切ってなったとはさせないはずです。
以上の確信理由から、現在の教科書に載っていることは間違いだと確信できるのです。
このように昔から戦いの勝因の根っこにあるのは「体力」だったのです。それは現在のあらゆる勝負事においても同じです。そしてその「体力」の難しいところは、今日、明日で解決できないところです。つまりテニスなら打点の修正や配球を変更するということはすぐにできますが、体力不足が問題だと試合当日にわかっても対処のしようがないのです。それは数年もしくは数十年を要して作り上げていかなければ手に入れれないものなのです。
それは会社組織も同じです。この「体力」にあたる部分は「兵糧」から「お金」や「エネルギー資源」にと変わりつつあります。ですから現在でも会社は内部留保金の適正額などは経営コンサルタントにアドバイスされたり、データなどから適正額をためていたのですが、その内部留保金をどのようなときに使うのか、どこに投資するのかの判断ができなかった社長が多いのです。そのため現在のような不景気や人口減少に伴う売上げの低下が起こっても対処ができてないのです。
なぜこのような判断ができないかというと、現場を知らないのです。
秀吉は薪係出身でしたし、信長や光秀は成り上がりではありませんが、直近の部下に現場をよく知っている人間をそれまでの身分関係なく配置させていましたし、重要だと思われている御前会議は適当で、現場の人間や忍者、足軽などの末端の兵と気軽に話をしたりと、現実的な生の情報を仕入れていたのです。
しかし、今うまくいっていない会社というのは、近年の行いだけが悪いのではなく、数年前から現場を知らない偉い人の集まる幹部会や役員会で重要なことを決めてしまい、知らない間に「体力」を失っていたのです。末端でも現場の意見を聞くなんて誰にでもできそうですが、そう簡単なことではありません。聞いて知りたい情報だけ聞ければいいのですが、聞きたくない情報も耳に入ります。それは前任者や現在の幹部の悪事や不正などかもしれません。そういったことにクビを突っ込みたくないのです。そういった見たくない物まで見たり、末端に会社批判をされるプライドがあるので聞けないのです。そしてそれらの事柄は長年の体力トレーニング不足から起きている自業自得なものばかりなので尚更です。
つまりは日頃の体力トレーニングが大切なのです。目的を見定めて、必要な時期に必要なだけという時間と配分を考えながら、そして見やすい筋肉の大きさなどだけに着目せずに、バランスと成長性をちゃんと見ながらトレーニングをしていかなければなりません。
難しいこと考える前に、体力がなければ勝負には勝てないということ
これを私も肝に銘じておかなければなりません。