学ぶということ

司馬遼太郎さんの歴史観は鋭い。

私も小さな頃から自分なりの歴史観というものを持っており、個人的には童門冬二さんも好きだが司馬先生だけは、他の歴史学者や作家とはレベルが数段違うように思う。(個人的に徳川家康坂本龍馬については違うと思っているが)

 

この本の中で新井白石吉田松陰を取り上げた『学問のすすめ』という章がある。そこに私なりに考えていたことを一言でまとめられた言葉が出てきた。

学問とは態度である

『学問とは』となっているが、これは学問という言葉以外にも置き換えれることが多い。つまり『学ぶ』ということに関して全て当てはまると思うのだ。

この章の最後の数行を引用する。

この両人に共通しているのは知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さであり、その結果として文章表現がじつに明晰であったということである。さらにいえることは、両人とも学問をうけ入れて自分のなかで育てるということについての良質な態度を、天性なのかどうか、みごとにもっていた。学校教育という場は、学問にとって必要でないというのは暴論だが、しかし彼らがもっていたこの態度をもたずに学校教育の場にまぎれこんでもそれは無意味であり、逆に、学校教育から離れた場所に身をおいていても、この態度さえあれば学問は十分にできるという例証になりうるのではないか。

歴史観に鋭い超一流の作家が、ここまでまとめられると他に付け足すことがない。まさにその通りであるのだが、この文の中に引っかかりがあった。

両人とも学問をうけ入れて自分のなかで育てるということについての良質な態度を、天性なのかどうか、みごとにもっていた。

これは天性なのだろうか。

私は、ここにある確信的にな考えを持っている。それはアインシュタインの言葉にもヒントがある。

正規の教育を受けて

好奇心を失わない子供がいたら、

それは奇跡だ。

つまり、人はみな、白石にも松陰にも共通して持ち合わせていた知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さを生まれたときには持っているのではなかろうか。それを学校をはじめとする教える側の大人が奪っていくのではないだろうか。逆に、それを与えてくれる大人もいる。私にも、現在の仕事で『師匠』と呼べる方がいた。私は師匠から様々なことを教わったが、仕事で必要な技術や知識の答えを丸暗記したわけではない。今から考えると師匠がこの仕事に対して知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さを私に与えてくれたのだと思うのだ。

私も学びに来ている人に教える仕事をしているので、仕事柄落ち込むことも多い。その多くが技術系の問題であったが、これに合わせて人に知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さを与えることができたのか。むしろ、それを奪いはしていないかという問いが重くのしかかる。逆に、これを奪わず、与えることができることこそ、学びにきた人が上達することではないかと考えている。

そして、私は二人の息子の父親でもある。彼らが学ぶということを受け入れて自分の中で育てるという良質な態度を持てる人間になれるかどうかは、彼らの本来もつ知的好奇心の強烈さと、観察力の的確さと、思考力の柔軟さを奪ってはならないことと、彼らが興味をもったことに対して、それを与えることができるかにかかっている。

学ぶ場所というのは学校だけではない。だから先生だけでなく全ての大人が、人が本来もつ資質を奪うことなく、どうすれば与えることができるのかを考えることこそが『学ぶ』ということに対しての適切なアプローチであると、私は三十代半ばにして気づいたのである。